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Komorebi Houseおすすめ絵本や昔話の紹介ブログ。
将来の夢の絵本店の名前をブログ名にしました。 子どもにも大人にも喜んでもらえる絵本の店が理想です。 木漏れ日の下でほっと一息、ついていって下さい。 |
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秋の紙芝居:『せんとくのおかね』
[ 紙芝居 ]
今月も残りわずかとなりました。
9月は、敬老の日あり、中秋の名月あり、お彼岸ありと、行事の多い月でしたね。 今回は、今月の大人(主に高齢者)向けのお話し会で演じた紙芝居の一つ、 『せんとくのおかね』 を、紹介したいと思います。 (佐々木悦/脚本 、箕田源二郎/画 童心社) ある日、坊さまが旅の途中でひょんなことから、財布を見つけます。 財布の中には「せんとくにあたえるおかね」と書かれた紙と小判が入っています。 「せんとくとは誰だろう?」と、坊さまが不思議に思ってその場を離れた時に、落ち葉を集めに来たおじいさんが、財布に気付かず枯れ葉と一緒に持ち帰ってしまいます。 さて、坊さまが山を越さないうちに辺りは暗くなり、困った坊さまは一軒の家を見つけて泊めてもらいます。 坊さまを泊めてくれたおじいさんは、先程、枯れ葉を集めていたおじいさんでした。 翌朝、おじいさんは坊さまに「昨夜は騒がしくて眠れなかったのではないか」と言って、詫びます。 息子の嫁が赤ん坊を産んだと言うので、坊さまが名前を訊ねると「せんとく」という答え。 坊さまが昨日の出来事(財布の事)を話すと、おじいさんは急いで見に行き、見つかった財布を坊さまに返そうとします。 「これはせんとくに授かったお金だから」と受け取ろうとしない坊さまに、おばあさんはおにぎりを2つ作って、坊さまに持たせます。 その1つに小判を忍ばせて…。 そんなことは知らない坊さまは、ありがたくおにぎりをもらって帰ります。 さて、坊さまは途中で道を急ぐ若い男に出逢い、おにぎりを一つ、その男にあげるのですが…。 なんと、その若い男は家路を急ぐ、せんとくのお父さんだったというお話しです。 結局、小判はせんとくの元に戻ったという訳です。 登場人物はみんな、欲がなく、相手のことを思いやっている中で、小判は知らないうちに巡り巡って戻ってくるという、温かい奇跡を感じます。 秋の季節の物語であることと、心が温かくなるお話として選びました。 聞いてくれている方々が、最後には満足そうに微笑みながら頷いてくれているのが印象的でした。
お月見の紙芝居:『ちいさなおばけ』
[ 紙芝居 ]
今日は中秋の名月ですね。
先日のお話し会では、「お月見」「月」に関係する紙芝居や絵本をいくつかプログラムに取り入れました。 最近の子どもたちは「お月見」といっても知らない子が多い気がします。 月にウサギがいるなんていう子も、あまりいなくなったような…。 だからこそ、敢えて「お月見」のお話しを選んでみたのです。 その中の一作が、 『ちいさなおばけ』 (瀬名恵子/画 教育画劇)です。 この紙芝居は、ムーランさんのホームページで知って(コチラ)、今回初めて演じました。 おかあさんが出かけていて、一人で泣いているうさぎちゃん。 おばけちゃんは、なんとかうさぎちゃんを泣きやませようと、一生懸命です。 お月見の準備を始めますが、「お団子がない」と言って泣きやまないうさぎちゃんのために、おばけちゃんはお団子に化けてあげるのですが…。 うさぎちゃんが、ぱくりと食べようとしたから、さあ大変。 今度はおばけちゃんが泣き出してしまいます。 最後はうさぎちゃんのおかあさんが、お団子を買って帰ってきてめでたし、めでたし。 とても可愛い、お月見紙芝居です。 中を読まないとお月見紙芝居とは気付かないので、9月に入ってから図書館で予約しても、まったく待たずに借りられました(ふだんは季節物の絵本や紙芝居は予約の順番待ちが多く、かなり早目に予約しても間に合わないこともありますが)。 さて、今回は初めてお話し会に来てくれた、1歳半くらいの男の子がいました。 お話しにはあまり、集中できず動きまわっていましたが、『ちいさなおばけ』が始まると、前に歩いて来て、じっと見ていました。 後でお母様が、家に「ねないこだれだ」(せなけいこ作)の絵本があり、それを何度か読み聞かせしていたから、絵が似ていると思ったのかも…と、言っていました。 子どもの感性は鋭いなと改めて感心した出来事でした。
敬老の日にお薦め紙芝居:「やまんばのにしき」
[ 紙芝居 ]
JUGEMテーマ:昔話 明日は敬老の日ですね。 仕事柄、敬老の日は思い入れの多い?日ですが、この日の前後で「敬老の日」のイベントをする時に、昔話を読んだり、紙芝居を演じたりする機会も何度かあります。 今月の高齢者向けの紙芝居として選んだのが 『やまんばの にしき』 (松谷みよ子/脚本 、井口文秀/画 童心社) です。 この紙芝居は過去にも何度か演じておりますが、高齢者に人気の高い、紙芝居のひとつです。 ちょうふくやまに住むやまんばが赤ん坊を産んだから、餅を持ってこいという、大きな声と音が村中に響き渡り、恐れをなした村人たちは、あわてて餅をつきます。 しかし、誰もやまんばに届けようと申し出る者がいません。 結局、村一番を争う豪傑と言われている二人の若者が、あかざばんばというおばあさんを道案内に、やまんばの住み家を目指して山を登っていくのですが、途中で怖気づいた二人の若者は村へ逃げ帰ってしまいます。 あかざばんばは仕方なく、ひとりでやまんばを訪ねると…。 やまんばは優しく、親切で、あかざばんばに「自分は産後で体が辛いから、しばらくここにいて、手伝いをして欲しい」と頼みます。 そして、あかざばんばが村に帰る時に、いくら使っても元の長さに戻るという、宝物の錦をお礼にと渡すのです。 村人たちはあかざばんばがいつまでも帰って来ないので、やまんばに食べられてしまったと思い込み、お葬式の準備をしていると、あかざばんばが元気で戻ってくるというお話しです。 どんな力自慢の若者でも敵わない知恵と勇気を持ったあかざばんばは、高齢者に人気があるだけでなく、子ども達にも素敵なヒロインに成り得るのでは… 絵本もありますので、是非、おじいちゃん、おばあちゃんとお孫さんとで読んでみて下さい。
『おおきな木』 :与える木は自己犠牲なのかな?
[ 絵本 ]
前回、紹介した 『おおきな木』 の、新訳絵本について、多くの方が記事にしているのを読み、大変、興味深く思い、改めてこの絵本が、読む方によって、いろんな解釈をされているのだということに、驚きました。
村上春樹氏は、あとがきで(この本を)一度で理解し、納得する必要はないと書いています。 「よくわからなくても、つまらなくても、反撥を感じても、腑に落ちなくてもやもやとしたものがあとに残っても、悲しすぎる、つらすぎると感じても、腹が立っても、とにかく何度も読み返してみて下さい。」 と。 りんごの木は、自分が愛した、自分を愛してくれた少年に、無条件で自分自身の身を削って、与え得る限りの物を少年に与え続けますが、私はそれを、自己犠牲とか、甘やかしとは感じませんでした。 でも、自己犠牲と感じる方も多いというのも、他の方の感想を聞いて知りました。 物語の解釈は読み手によって違っても、作者はそれを責められません。 『おおきな木』 は、共感だけでなく、様々な反撥を読み手に感じさせる可能性が大きいことを、作者はわかっていたのかもしれないなと、ふと思いました。 さて、ブログ友だちの るるる☆さん が、ブログの中で作者自身が「おおきな木」を朗読している貴重な映像を紹介しております。 るるる☆さんも私もこだわっていた個所を、作者が読んでいないことで、ますます、考えさせられました。 るるる☆さんは、様々な本を広く深く読まれている方ですが、絵本に対する感性が素晴らしい方でよく、参考にさせて頂いております。 ご興味のある方は是非、ご覧になってみて下さい。(rururu☆cafe はコチラから)
『おおきな木』:復刊本
[ 絵本 ]
JUGEMテーマ:絵本紹介 絶版になっていた 『おおきな木』 が、あすなろ書房より村上春樹氏の訳で今月の初めに復刊されました。 さっそく、本屋さんで手に取ってみました。 篠崎書林出版、ほんだ きんいちろう氏訳の本に馴染んでいたせいか、少々、違和感がありましたが、迷った末に購入しました。 どちらの訳がいいとか、原文に近いとか、どちらが好きとかを抜きにして、改めてじっくりと、読み返してみたいと思ったのです。 ロングセラーの絵本を別の作家が訳すというのは、とてもプレッシャーが大きいと思います。 語り口は村上氏の訳の方が、やわらかい感じがします。 一番気になったのは、男の子が木を切り倒して幹を持って行ってしまった時の "And the tree was happy ... but not really" の部分の訳し方でした。 読者それぞれの想いがあって、訳しにくい場面だと思います。 この部分だけを考えると、ほんだ氏の訳の方が私の心境にはあっている気がします。 もうひとつ、気になったのは、木の気持ちです。 「うれしかった」と訳しているほんだ氏に対し、村上氏は「しあわせでした」と、訳しています。 また、木の会話が女性の言葉遣いで訳されているのは、原文で "She" となっているからだと、村上氏はあとがきに書いています。 男の子のことは、最初から最後まで「少年」と訳しています。 こうしてみると、村上氏の訳の方が、原文に忠実に訳しているような気がします。 ただ、木にとっては「少年」でも、少年の言葉遣いまで、少年っぽいのは少し違和感がありましたが…。 私はどちらの訳がどうということを書きたかったのではありません。 村上氏はあとがきでこんな事を書いています。 「あなたがこの物語の中に何を感じるかは、もちろんあなたの自由です。 …略… 物語は人の心を映す自然の鏡のようなものなのです。」 だからこそ、読む度に、違う受け止め方が出来るのかもしれません。
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